<印可書についてのQ&A>


Q この印可書の持つ意味について教えてください。
 

真の神さまの一番の願いは、真祈りを伝授して全ての思い・我を消すこと。そうしたら、虚の世界が消えて、全ての問題が消える。
それだけが神さまの願い、目的。真祈りとは何か?真の神さまの祈り。真の神さまの働きそのもの。
真祈りの伝授は、真の神さまが降り立たないと伝授にならない。真の神さまの働きはどれだけ大きいか。
言葉だけでいくら説いていても、みんなまだ実感がない。感覚の実感も、観ずる方の心の目で見つめる実観も、まだまだ浅い。
今回、真祈りの本当の秘奥義を伝授するための印可書が、神さまからプレゼントされる。
本当に真祈りの秘奥義を体得している人には、この印可書は必要がない。

印可書の意味とは何か。修了書・卒業証書、秘伝を伝えるための秘伝書、奥義書という意味もある。
本当の印可書は本当の悟りを開いているかを、神さまが認めてくれるかどうか。その段階を評価して、本物かどうかをしっかりと認定してもらう。
でも、それだけだったら何の役にも立たない。悟りへの道を歩む過程において、色んな難関、関所が一杯ある。
この関所を通り抜ける時に、神さまの的確な導きと、無限の大きい護りが要る。その関所を通り抜ける通行手形になる。
これを持っているから、護り続け、導き続けてもらえる。本当の悟りへの最短コースを歩ませてもらえる。何もなければ受け取れないし、導きも護りも何もない。

これはお金では買えない、無限の価値のある貴重なもの。粗末にしたら、悟りへの道は歩めない。自分の命よりも、もっともっと大事なもの。
虚の世界の、肉体の命、魂の命は取るに足らない。本当の真の神さまが真の自分という大きい自分から見たら、命なんてゼロと同じ。
同じレベルに見ていたら、本当のものは受け取れない。だから、命よりも、何よりも大事なもの、大切なものという受け取り方が、必要になる。
そして本当の悟りを与えてもらうための、本当の悟りを開くまでの大事なお護りになる。
 

一つの言葉でも、本心の自分が答えを出すのと、思いの自分が答えを出すのとでは、正反対になる。
常に本心側に立って、答えを出そうとしても、答えが無限通りある。思いを全部消してもらって、我を全部消してもらってからが第一歩。
本心の自分の側に立って、真祈りの秘奥義に行くまで無限の段階がある。思いが全部消えたから、本当の悟りが開ける、そんなのとは違う。
思い、我が全部消えて、そこが出発点。そこからこの奥義書が必要になる。本当の導きと護りが必要になる。

 

○真祈りの全体図について

Q なぜ螺旋は左旋回だけなのでしょうか?

虚の世界は、プラスとマイナスと二つに分けている。左旋回がプラスの方、右旋回がマイナスの方。
霊と体に分けたら、左旋回が霊の方で、右旋回が体。そういう意味で、分かりやすく説明した時に、左旋回と右旋回と言うけれど、
神さまの世界では、左旋回だけ。プラスだけという意味で、左旋回にしている。右旋回のマイナスは無い、という意味。

ただ、神さまの螺旋の左旋回と言うけれども、神さまは本当の自由自在。形も無い。左旋回に光が流れる時に、何かパイプのようなものがあって、
その中を通り抜けるような感覚は無い。自由自在でも、本当の法則通りにスーッと流れる。枠にはめられて流れるのではない。枠は要らない。
枠がないから、無茶苦茶に流れるのではない。枠が無くても、本当に必要な法則通りの動きしかしない。ここが違う。
虚の世界は、枠の中を、パイプの中を流れようとする。そうしないと、枠やパイプが無かったら、他へ漏れてしまう。その違いが大きい。
自由自在でありながら、神さまは一つの最高の生き方を選べる。


Q なぜ真の神さまから降り注ぐ光は物質ではないのに、なぜ表と裏があるのでしょうか?この表と裏には、どういう意味があるのでしょうか? 

パイプの裏表と表現するけれども、本当はパイプがないから、裏表がないから表裏一体。
それでいて、パイプがあるように、表裏があるように、動いている。これも本心の心で見るのと、我の思いの心で見るのと正反対に解釈する。
本心で見るのは、神さまの心を汲み取ろうとする。本当の深い意味を汲み取って、理解しようとする。表面の言葉に縛られない。
奥を深く深く理解しようとする。思いの心の方は、形にとらわれる。縛りの中でどうしても見てしまう、考えてしまうから、ちょっと矛盾するな、とか思う。
神さまの側に立とうとしたら、本心側に立ってみたら、矛盾が消える。単なる表面の言葉ではない。正反対。どんな言葉もそう。
本心と思いの心とは正反対に解釈する。

例えば、精神統一とか、精神集中。これは本心と思いの心は正反対。思いの心は、精神統一と言うと、一点に集中する。精神集中も同じ。
周りがわからなくなるくらい、一点に集中しようとする。これは思いの心、我の心の集中。でも本心の集中は正反対。無限大へ心を広げる。
神さまの本当の大きい御心の中へ心を広げていく。一点じゃなく、無限大に広げる。同じ精神統一、精神集中と言っても、解釈が違う。正反対になる。

一つの言葉を解釈するときに、本心側に立って、神さまの辞書に合わさないとダメ。神さまの辞書は、一つの言葉でも、幾通りにも解釈がある。
10通りくらいではない。プラスの大きい解釈が、本当は無限通りある。常に本心側に立たないと、とらわれてしまう。

本当の左旋回がどういうものかも、言葉だけの理解だとわからない。奥へ奥へ入ったら、形を越えているから。単なる形を見ての左旋回ではない。

 

Q なぜ螺旋なのでしょうか?どういう意味があるのですか?

旋回の螺旋が、直線ではないところも、違いが大きい。螺旋だと相似形の姿をとって順番に移り変わる。
円だったら、小さい円から大きい円に順番に広がる。入れ子構造の最初の一番簡単な姿を表わす。
本当の入れ子構造の姿は、単なる模型的な小さい相似形の姿の比較ではない。奥が深い。表面の解釈と奥深い解釈とは違う。
同じ左旋回、螺旋と言っても、言葉の解釈が、奥へ入るほど、複雑になる。単純なものではない。ここも順番に体得していくしかない。
言葉だけでは誤解を招く。特に思いの心では誤解のしっぱなしになる。本心側に立っても、浅い解釈で終わる。
だんだんと奥深い複雑なものになって行かないとダメ。それが形を越えているだけに、どこまでも奥深い。

Q 絶対の中心とは場所のことではないと聞いているのですが…

絶対の中心というのでも、どこか一定の場所があるのではない。一番大きく与える立場。どこにあるか。神さまの御心は、どこまでも奥深い。
入れ子構造でも無限に奥深い。一番奥深い、入れ子構造の一番奥。そこもまだ、絶対の中心かどうかわからない。まだもう一つ奥があるかもしれない。
大きく与える立場はそう。これも空間的に見て、場所を指定するようなものではない。入れ子構造、重層構造、異次元構造、全部が合わさった、全部のおおもと。
場所じゃないから、どこでも、全部が絶対の中心にもなるし、ならないかもしれない。これはやっぱり自分の自覚。本当に大きく与え続ける自覚。
本当の愛の深さの自覚。大きくなるほど、絶対の中心に近い。

でも本当の絶対の中心に立つというのは難しい。更に、奥がある。自分を支えてくれる大きい無限倍の支えがある。
それだったらまだ絶対の中心ではない。まだ奥へ入っても、まだ、無限の無限倍の支えがあったら、まだ絶対の中心ではない。
まだまだ自分が小さい。自分が大きい立場だと言って、そこで行き止まりでは、自分がまだ未熟だ、ということ。絶対の中心から程遠い。頭打ちではダメ。
更に奥がある、更に奥があるという方が、絶対の中心に近い。絶対の中心を認めていることになる。
絶対の中心に立つことは難しいけれど、絶対の中心を受け入れて認めることは出来る。それがどこまでも大きく深くなっていく。

Q渦巻き同士が、干渉も邪魔もしあわないのは、なぜですか?
また、無限の無限の渦巻きが支え合うとは、どういう姿なのでしょうか。

干渉も邪魔もしあわないのは、無色透明だから。無色透明の中には、色んな色の透明なものが全部含まれる。
細かく分けたら無限の光になる。更に透明でない光も、一つの透明な光の中に全部含まれる。
無色透明の光の中には、ありとあらゆる光が全部含まれる。神さまの場合は、単なる光ではない。光源と光の両方。輝き。
輝きというのは、光の進軍、光源の進軍。本当の光源と光の流れ、これが輝き。無色透明の輝きというのは、神さまの本当の働きの全て。

だから一つの渦巻きだけを見ていると、絶対の中心、一番大きいところから、一番小さいところ、本当の無の一点まで、スッと降りてスッと戻る、一瞬に戻る。
一瞬に現れて、一瞬に戻る。そうしたら、他の渦巻きと全然連携が取れてないかと言うと、違う。全部連係が取れている。同じ働きは絶対にしない。
全部異なる働きになる。全部違う働きをするというのは、連係が取れているから出来る。そのおおもとが真の神さま。
単に真の神さまと表現するけれど、全てを異なる姿で、異なる渦巻になって、表すおおもとが、真の神さま。
常に全体が大調和した、一大調和の姿を取る。

必要なものを的確に与え尽すのでも、本当に必要なものを的確に与え尽すと言っても、無色透明が一番、一瞬に必要なものに変化出来る。
一瞬に、何にでも変化する。だから必要なものを即座に、的確に与え続けられる。例えば透明な赤い色だったら、瞬間に透明な青にはできない。
変化出来ない、対応出来ない。赤を除けて、青を持ってこないといけない。それでは瞬間にはできない。
だから常に無色透明で移動しないといけない。それで何を必要としているか、受ける側の必要性に応じて、瞬間に変化する。
与える側と受ける側との違い。与える側は、全部用意していないとダメ。受ける側が必要なだけを受ける。

受ける側には段階が無限にある。透明な光を受けるのか、透明ではない色々な有色の光を受けるのか、必要性が全部一瞬一瞬変わる。
本当に必要性に応じて瞬間に変化するのは、無色透明な光、輝きだけ。そういう意味で、真の神さまの動き、流れは、全部無色透明。
無色透明は、絶対干渉し合ってないし、邪魔し合ってないし、ぶつかり合っていない。正体が消えて無いから。
でも本当の連係プレーは取れている。同じ螺旋でも、角度は全部違う。方向も全部違う。縦横無尽。全方向に、全部向いている。
だから同じ方向から同じ方向へとは違う。それが本当に真の神さまによって全体が一つに統一されている。
だから全部連係して連なって循環している。人体の血液の循環位ではない。無限億万倍素晴らしい循環。
これが真の神さまの一大循環の相象。

神さまの世界においては、それぞれ意識あるもの、本当に一切の我のない、無色透明の自由自在心のものが、無限に無限に存在している。
その人がどの立場に立つかによって、何が必要かは全部違う。同じものは必要としない。
全員が一瞬一瞬変化させながら、全部違うものを必要とする。今必要というものと、次の一瞬必要なものは違う。
それが、全員が全部違う。それに対応出来る、真の神さまの与え方は、本当は無限倍素晴らしい。
だから人間の人知を遥かに超えている。思いの心なんて遥かに超えている。そんなものでは、想像も何もできない。
本心の自分に戻ったからって、無限分の一もまだわからない。本当に与え尽す神さまの側がどれだけ凄いか。
神さまに与えてもらってというのは、まだ小さい。無限の無限の渦巻きがあって、全部が本当に必要な働きをするから、支え合いになる。
大きい目的に応じて、全体が必要な働きのお手伝いを全部している。

そうしたら神さまの本当の目的は何か。全てに対して、本当に必要なものを、本当に必要なだけ、的確に与え続けること。
この目的に対して、みんなが自分の役割を演じきる。一つ一つの渦巻きが全部そう。
渦巻きというのはある意味では、一個一個の天照大御神様、光源の働き。だから一個一個の天照大御神様は、神さまの御心のままに、
本当に必要なものを与えるお手伝いをしている。大きい循環の中に自分を置きながら、更に自分も、螺旋に循環して動きながら。

だからみんな本当の意味での連携プレー。どの一つを欠いても足りない。自分一人ぐらいは、ではない。自分一人が絶対必要。
他の全ても絶対必要。同じ働きは、どの天照大御神様も同じことは絶対にしていない。全部違う働きになっている。そこがまた違う。
本当の一大調和の姿を取る。だから五感や六感、思いの世界の感覚と、本当の神さまの世界とは比較にも何もならない。
本当に濃い霧が立ち込めて、何も見えない状態の世界と、霧が晴れて全部見通せる世界と、比較したらよくわかる。
霧も無い、晴れて無限の彼方まで見通せる世界と、本当に濃い霧が立ち込めて一センチ先も見えない状態の世界と比べたら、
思いの世界は何も見えていない。本当に思いや我が消えて、本心の立場に戻ったと言っても、まだ、表面の浅い無限の世界。
無限の彼方までは見えないし、次元が変わったら、奥深い姿は見えない。次元に応じて全部違う世界がある。
虚の世界がそうだけど、一つの次元で、無限の宇宙があっても、違う次元の虚の世界がまた、無限にある。
更に上があって、上があってと、無限の段階の次元の宇宙がある。虚の世界ですらそう。
それは、全部本当の神さまの世界の残像の一部が映っているから。神さまの世界がもっとすごい姿をとっているから、その残像ですら、奥深い。
全部無限の段階に分かれている。宇宙の星の動きもほとんど全部が左旋回。

Q どうしたらこの真の神さまの働きにもっと気づき、実観を深めていくことが出来るのでしょうか?

本当に神さまの働きを、本当の意味で実感する、感覚的に実感する、それだけでも、大変なこと。
本当の実観は、思いを全部消さないとダメ。思いや我があったら、ものすごく邪魔をする。正しく何も感じとれない。
五感六感の感覚は、思いの感覚。絶対それを消しきらないと本物にはならない。全ての思い、我を消してもらって、初めて、
本当の実感が、感覚的な実感が生まれてくる。でもその感覚的な実感は浅い。表面だけ。本当の心の目で深く見る実観の方が、正しい実観。
無限の洞察力、無限の推理力、無限の達観力が必要。それでないと、奥深いものが観じ取れない。実観出来ない。

いかに思いにとらわれているか。みんな思いを大きく拡大して見すぎている。
今回なぜ、神さまが印可書を降ろしてくるか。真の神さまの世界が、どれだけ大きいか素晴らしいか。ここへ、心を向けさせるため。
思いの世界は、あるように見ているけど、無いんだ、思いの世界、虚の世界は、全く無い、ゼロ以下っていう位に見ないとダメ。
みんな虚の世界を拡大して見すぎている。真の神さまの世界から見たら、虚の世界は無い。思いの残像が、ある、
思いの霧が立ち込めていると言うけれども、本当は無い。神さまの世界を見る人にとっては、残像の世界なんて本当は無い。
本物を見ていたら、残像なんて起こらない。本物を見るのを忘れたら残像があるように思う。どこに残像があるか、本当は無い。
この違いを判らせようとしてくる。真祈りの伝授は、真の神さまの世界だけなんだっていう実観を与えるためにする。
そのために邪魔する思いを、スーッと消してあげようと神さまが働く。だから思いさえ消してもらえたら、本心の実観が、霧が晴れるように出てくる。

○十界について

Q 真の真の十界と、真の十界と、十界と、ミニ十界、それぞれの違いを教えてください。
また、「降り立つ姿」で十界のそれぞれに波を合わせて同じ姿をとる、とは、どういうことですか?
 

 今までは虚の世界を分けて十界と言ったけど、これは、思いの世界の話。思いの心を相手に説いている。バラバラに見ているから。
十界と分けて、階級をつけている。差別している。これは思いの心に対する説明。単なる十界と、ミニ十界がある。
これは思いの心に対する説明。真の十界と、真の真の十界は、本心の心に対する説明になる。
今回は、本心に対する説明を加えている。真の十界と、真の真の十界とは何か。

 真の真の十界というのは、真の神さまが思いの世界をスーッと消そうとして、消すために降り立つ姿。
どういう消し方をするか。真の神さまの働きは、常に、半分背負う。半分背負って消す。そしたら波が合う。
一番上から、一番下まで、半分背負ったら、同じ姿をとる。そういう波の合わせ方。半分取って波を合わせる。
だから仏界も、菩薩界も半分取って、同じ波。地獄も餓飢道も同じ。半分取って同じ波だから、同じ姿を持つ。
地獄へ降りて半分取っても、自分も地獄の姿をとる。それで半分取って消してしまう。一瞬同じ姿をとって消す。
これが真の神さまの真の真の十界の姿。思いを消し続ける姿。

真の十界は、思いを消してもらう方。バラバラに見ていたらダメ。全体を一つに見る。十界全体を自分と見る。
真の神さまが、自分の思いを全部、十界の全ての思いを全部消しきろうとしてくれていると受ける。本心の自分は常に自分が全て総責任者。
バラバラに見ない。人の分、自分のものと分けない。総責任者は全部自分のものとして受ける。
そしたら、その思い全部、虚の世界全部、十界全部が自分。自分を助け続けてもらう姿。
だから半分ずつ消し続けてもらう姿そのままが、自分を助け続けてもらっている姿。
だから地獄絵図を見ても、この地獄絵図を半分消してもらったと受ければいい。半分消すって大変なこと。大きい助け。

どの十界の姿も、全部半分消してもらっている姿。無限に無限に有り難い姿。どれだけたくさんの思いを、マイナスを消しているかわからない。
言葉で表現できない。それを受ける側で、全て自分の総責任者の立場で受けて、プラスに見て喜ぶ生き方。これが真の十界の姿。

そしたら、今まで十界って、バラバラに説いて自分はどの心境かって言っていたのが、いかに捉われた見方かわかる。
まず、比較している、差別している、小さい自分を掴んでいる。どの菩薩界にいようが仏界にいようが、小さい自分になってしまう。
本心から見たら、いかに小さいか。いかに過去を掴んでいるか。

でもその十界でも大きい。さらにミニ十界が生まれてくる。思いの心を生きていると、どうしても視野が狭くなる。小さく小さく掴み続ける。
だから、本当の十界、真の十界ではなく、普通の単なる十界とミニ十界との違い、これもものすごい大きい差がある。
大きい十界の仏、仏界、菩薩界は、どんな姿をとっているか。仏界の仏様は、宇宙が自分と言う。荘厳極まりない姿をとる。本当の慈愛の塊のような姿。
菩薩界の菩薩はどんな姿か。本当の観音様とか、普賢菩薩とか、勢至菩薩とか、色んな最高の菩薩の姿をとる。神通力がある。変身自在。
それでもまだ小さい。単なる十界。真の十界でも真の真の十界でもないの。そこが違う。

みんなこの、真の真の本当のものを、真の真の十界を生きないといけない。全体を自分として受けないとダメ。
それが本心の生き方。本心でないと、真の神さまはそこへ降り立たない。真祈りの伝授なんて受けられない。
真祈りの伝授は本心でないと受けられない。思いの心が受けるのではない。だから、修行してではない。反対。修行したらダメ。
修行して上がっていこうと言うのは、思いの心。本心の自分は、いつも新たに受ける心。新たな自分。新たな自分に真の神さまに降り立ってもらう自分。

でも、大きい十界を生きて、本当の菩薩界、仏界に上がったら大したもの。声聞、縁覚でも大したもの。
小さいなりに、本当のプラス思考で、一切マイナスを認めない。マイナスの言葉も使わないし、マイナスを相手にしない。
見ざる聞かざる言わざるを徹底出来ている。本当のプラス思考、全てをプラスに解釈できる、翻訳し直せる、これが大きい意味の声聞・縁覚の心境の人。
菩薩界、仏界に上がったら本当の神通力がある。いろんな奇蹟が自由自在に起こせる。そこまで行けたら、まだまし。

でもまだ、みんなそこまで行ってない。だから、ミニ十界にいて錯覚している。小さく落とし穴にはまった姿。
思いの心を生きたら、我の心を生きたら、ミニ十界にはまり込む。これは、自分で作った落とし穴。最初に落とし穴があるのではない。
自分が落とし穴を作って、そこにはまり込む。そうなったら、井の中の蛙と同じで、狭い範囲しか見ていない。
だから、有限の世界を見ているのは、まだミニ十界。無限の彼方を見ることが出来て、大きい十界になる。
でも、マイナスをちょっとでも認めたら、偽物になる。もう全部、プラスにプラスにだけ見たら、真の十界になり、真の真の十界になる。
それでもまだ、思いを相手にしている間は、虚の世界になる。十界になる。思いを相手にしない真の神さまだけを相手にするのが、本物の世界になる。

だから、いかに真祈りが、真の神さまだけを言葉にしているか。虚の世界を言葉にしない。
真のプラスの言葉だけっていうのは、本当に真の神さまだけを言葉にする。
だから、真祈りは、真の神さまを与え続けて、真の神さまで埋め尽くして、真の神さまだけになっているっていう、断定の祈り。
それ以外したら、真祈りでなくなってしまう。真祈りでないと、真の神さまはそこに降り立たない。また思いを積み続ける。
思いを消すのではなく反対になってしまう。だから、真の神さまだけを言葉にする。

 特に、ポスティングを本当に何の為にしているか。真の神さまが降り立つため。波を合わせて、波が合っているから降りてくれる。
小冊子に波が合っているから、真の神さまだけを表現する言葉になっているから、言葉があって、波が合って、真の神さまが降り立ちやすい。
ポスティングをするのは、愛の心で真の神さまに降り立ってもらおうと思ってしている。だから、真の神さまがスーッと降りる。
必ず、一冊一冊に、無色透明の光になって、輝きになって、降り立ってくれる。そしたら、何が起こるか。
通り抜けたところの思いがスーッと消える。消してもらえる。思いを消して、我を消してもらえる。

 
 思いが減って、我が減ったらどうなるか。真の神さまのことがわかり始める。
今までは、虚の世界か真実の世界かの比重が違っていた。どっちを大きく見るか。
思いを消してもらうにつれて、だんだんと神さまの世界が本物と分かり始める。
今までは、虚の世界が本物と思っていた。ところが、神さまの世界が本物と分かり始める。
だんだんと、思いが消えるにつれて、神さまの世界だけなんだってわかってくる。実感が与えてもらえる。

ポスティングは、単に本を配っている、そんな浅いものではない。思いを消し続けてもらう姿。
自分だけのではない、自分も含めて、縁者や大勢の人の思いを消してもらう。ポスティングした人の思いだけを消しているのとも違う。
神さまはみんなの思いを消そうとしている。ポスティングする人のだけを消そうとはしていない。
ポスティングする人が一番大きく消してもらうことは確かだけど、大きく全体の思いを減らそうとして、消そうとしている。

真の神さまは、人の自由意志を絶対尊重して働く、動く。本当は、思いを消してほしくない人には、近寄れない。
自由意志を無視して、おせっかいに強制的には出来ない。だから、ポスティングする人が必要になる。
思いを消してほしい、みんなを幸せに変えてほしいっていう、この願いを持って動く人が、神さまに実際に降りてもらえる働きかけができる姿をとる。
だから、真祈りを祈る人、ポスティングする人が必要になる。神さまはそこへしか、実際降りられない。
降りたら、大きく思いを消せる。その人の思いも縁者の思いも、みんなに助けが行くように、みんなの思いを消してほしいっていう願いも、神さまが受けて働ける。

だから、このポスティングの威力は凄い。台風が来ていても、台風が消えたり逸れたりしてくれる。ポスティングの威力の方が遥かに大きいから。
台風でも思いを浄めてくれるけど、思いを大きく消す力が桁外れに大きい。真の神さまが降りたらそう。
それでだんだんと真祈りを祈れる本心の自分へ一人一人戻してもらう。それで真祈りを伝授するための印可書が降りてくる。
それでなかったら降りない。必要ないから。みんなが、真祈りを祈れるようにだんだんと変わってきている。
本当は、これが大奇蹟というより一大奇蹟。何億年、どんな修行しても思いがなかなか消えない。
何の修行もなしに、神さまのお手伝い、神さまに使ってもらうだけで、大きく思いが消える。何億年かかっても消えないものが、さっと消える。
それで、本心の自分に戻って、真祈りを祈れるように変えてくる。これが本当の大奇蹟。

これもみんなが本当の意味で、支え合いの心を起こさないとダメ。支え合いというのは、自分が総責任者にならないと出来ない。
ポスティングも、誰かのお手伝いではダメ。自分が総責任者の立場に立って、一人でもポスティングさせていただくという気持ちになって、
初めて全体の周りの神さまの支えがよくわかる。
真の神さまの支えが、全体の支えが、みんなの支えが、もう本当に涙が流れるくらい嬉しくなって実感(実観)しないとダメ。これが支え合う姿。
その為に、自分が総責任者にならないとダメ。自分が総責任者になって一人でもしなければならないとなったら、
どれだけ支えが大きいか、ものすごい支えを与えてもらっているかを実感(実観)する。
その実感(実観)が真の神さまの支えを受け取る自分になる。だから、自分が何かして、ではない。
神さまの支えがいかに大きいかを感(観)じ取ること。どれだけ真の神さまの支えが、無限に無限に大きいか。
これを感(観)じる自分が、本心の自分になって、真祈りを祈れる自分になる。神さまの支えがわからなかったら、何もわからない。

だから、周りの人が自分を支えてくれているという受け方が出来ないとだめ。
だから自分が総責任者になって、みんなに支えてもらっていると、いやと言うほど味わわないとダメ。
それが根本にあって、真の神さまの支えが実感(実観)できるようになってくる。

もし、自分が300万部一人で配らないといけないとなったら、大変。本当に神さまの助けを受けて悟り開くために、絶対必要となったら、
どんな事があっても自分一人でしなければならない。でも一人でしたのでは、支え合いになっていないから、
本当の真の神さまの支えと言っても、実感(実観)するまでにはいかない。小さい。
それよりも、みんなに支えてもらって300万部を配れた、神さまの御手伝いが出来たと言う方が、神さまの支えが大きく実感(実観)できる。
1人でするよりも、みんなで支えてもらってする方が、神さまの支え、助けが大きい。そのために、総責任者になる人を、1人でも増やしたい。
一部の人で終わったら、本当は良くない。総責任者になる人を、1人でも増やしてあげたい。その人が真の神さまの助けを、大きく受ける。
思いを大きく消してもらえる。真祈りを祈れるように早くなる。

そしたら冊子を作るのでも、お金でもそう。1人の人がお金を持っていて全部したら、それで終わり、楽だろう、というのは間違い。
1人の人が総責任者になっても
ダメ。少なくても一万人位が、総責任者の気持ちになって、少しづつ自分がお金を出して、
それで残り全部に助けてもらって、支えてもらってと言う気持ちになった方がいい。そうでないと、本当の支えの姿の中へ降り立つ神さまは、降り立ってくれない。

真の神さまが降り立つのは、必ず支え合いの中にしか降りない。神さまの世界は、本当の支え合い。
だから、常に支え合いを目指す。自分一人で何でもしたらいいのとは違う。反対。みんなに助けてもらってしないとダメ。
みんなに支えてもらって、一つの事を成し遂げた時に、神さまの助けを大きく受ける。
みんなの支えを無視して、神さまと直接取引して、自分一人神さまの助けを大きく受けた、なんてことは絶対にありえない。
みんなの支えを受けられる自分が、真の神さまの支えを大きく受ける。ここを間違えたら損をする。
だから個人プレーで、どれだけ能力あっても、しても意味がない。真の神さまは降り立たない。思いを、我を積むだけ。
だからみんなに支えてもらって、みんなに助けてもらってというのが、一番大事。そしたら本心の自分に早く戻る。思いも大きく消してもらえる。